江畔寺本堂

江畔寺の沿革と概要


 江畔寺の沿革

開基

建武三年(1336)北朝方佐竹一族が、瓜連南朝方楠木勢を撃破一掃して、佐竹九代貞義の三男義春が、常陸介の官職と緒川流域一帯・大田武石屋敷(8貫500文)、白方(300貫文)、小亀(100余文)、岡田郷(150貫文)の領地を与えられ、領地の中心小瀬に居城を築き、小瀬氏を称した。
康永三年(1344)剃髪入道して、城域の大手門に小庵を営み、小瀬一族の菩提寺の基礎とした。死後、西側山上に勝軍地蔵菩薩を祭祀し、義春の化身仏と尊崇された。

勝軍地蔵堂

開山

観応元年(1350)義春の三男悟真妙頓(幼名孝繁)が、夢想疎石に学び、夢想疎石を招請開山として孝繁が、開山二世になり南内山 孝槃寺と称し、長兄義益の援助で当寺を開いた。

佐竹一族、秋田に国替

佐竹氏が関ヶ原の戦後処理によって秋田へ転封となり、慶長七年(1602)小瀬一族も宗家に従い秋田に移住し、水戸藩の領地となった。袴田善兵衛栄斎の御縄(検地)の時に、栄斎が江畔寺と改字した。

慶安元年(1648)江戸幕府三代将軍家光公より、ご朱印15石5斗1合・寺内6石7斗3升4合を賜り、上小瀬、氷之沢、野沢村民3百戸の檀家寺となった。

水戸藩徳川光圀の宿泊参詣

元禄五年(1693)光圀が、当山に二泊三日参籠し、漢詩を作った。

門前の小川の清流で斎戒沐浴したので、この地域一帯をお留渕と称されて、聖なる場所として一般人の立ち入りを禁止した。

元禄六年(1694)に古作地蔵菩薩を当山に寄進下された。

幕末の水戸藩
明治維新政府の廃仏毀釈

明暦三年(1697)水戸藩主徳川光圀は、彰考館を開設して「大日本史」の歴史編纂事業をはじめた。それが、幕末の水戸藩主斉昭の尊王攘夷となり、天狗諸生の内乱に発展し、水戸藩は藩内の廃仏毀釈を徹底して行い、多くの由緒寺院を破壊し、神道復古による神葬祭を行うことを領民に強いた。
当寺も無住職状態になり、伽藍は荒廃し、本尊釈迦牟尼仏をはじめ、多くの寺宝は消滅した。

明治二年(1896)江戸幕府が大政奉還し、また、神仏分離令により、当寺は境内地一町歩を残し、明治政府に寺領を全部接収された。

徳川光圀漢詩

寺は川の畔にあり、軒の四方に緑の山々が重なっている。僧は茶を用意して出迎えてくれ、客の私は酒を求めて杯を重ねる。堂宇は朝もや夕焼けの日々の中に古色を帯び、所は奥深く静かで長い歳月を経ている。爽やかな語らいは、玉のような美しい露にしっとりと潤い、いくらか俗世の雑念を洗い清められる思いがする。

「続義公漢詩散歩 常陸の巻」(大森林造著)

戦後の江畔寺

大正四年(1915)当寺四十二世洞門和尚が住職に就任し、国に誓願し、国有地となっていた旧寺有山林二町歩を払い下げ、寺有山林とし、水戸藩の指導により神葬祭になっていた檀家を復檀させた。昭和二十年(1945)の敗戦により、言論、思想、信教の自由の世となり、国会の議決により宗教法人法が施行された。

昭和二十七年(1952)九月二十四日茨城県知事友末洋治認証により、宗教法人江畔寺となり、今日に至る。

江畔寺本堂

 江畔寺の概要

名称 南内山 江畔寺
宗派 臨済宗円覚寺派
本山 神奈川県鎌倉市 円覚寺
開基 佐竹三郎義春入道(小瀬三郎義春)
開山 招請開山夢窓疎石国師、開山二世悟真妙頓
住所 〒319-2401
茨城県常陸大宮市上小瀬2247
TEL TEL:0295-56-2517

 臨済宗大本山 圓覚寺

円覚寺は、鎌倉五山第二位の寺格に位置づけられた臨済宗円覚寺派大本山です。
1282年(弘安五年)鎌倉時代後期、時の執権・北条時宗が円覚寺建立を発願し、開山は当時中国の宋から招かれていた無学祖元禅師です。 創建の翌年には鎌倉幕府の祈願所と定められ、七堂伽藍、塔頭四十二院の規模だったといわれます。

その後、幾たびかの火災などで衰退した時期もありましたが、江戸時代終わりごろに大用国師が僧堂や山門の伽藍を復興され、同時に宗風の刷新をはかり現代へと続く礎を築かれました。鎌倉唯一の国宝建造物に指定されている舎利殿は、円覚寺境内の奥に無学祖元禅師の塔所で、全国からの雲水が修行する正続院と呼ばれる塔頭の境内にありますが正月三が日以外は非公開となっています。

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